2011年3月31日木曜日

2010年度中学校卒業礼拝説教

今日の礼拝には出席できなかった卒業生が十数名いますので、わたしとしては異例ですが説教原稿をここに載せておきたいと思います。本文中にもありますが、ここに改めて卒業のお祝いを申し上げます。「卒業おめでとう!」

立教池袋中学校 2010年度卒業礼拝説教
2011年3月31日 於立教学院諸聖徒礼拝堂

みなさん、ご卒業おめでとうございます。

…という言葉が本当にこの場にふさわしいのだろうか、ということを考えながら話さなければならない世界に、今のわたしたちは住んでいます。ニュースを見れば、毎日何か新しい不安や悲しみの種が生まれているような気すらします。事故から3週間を経ても、今なお全く事態が収束の気配を見せない原子力発電所。愛する人を失って悲しむ人々の姿を目にしない日もありません。しかし、こんな世界だからこそ、今日わたしは皆さんに「おめでとう」と言いたい、この言葉をもって皆さんを送り出したいのです。

最近、テレビのニュースに子どもたちの姿、特に元気な子どもたちの姿が意識的に写されているように感じます。このことには、単に「明るいニュースが欲しい」という以上の意味があると思います。子どもたちが全身で大人たちに伝えているのは喜びです。皆がこの喜びを必要としている。今、この世界が求め、必要としているのは喜びです。日々、絶望の縁ぎりぎりを生きているこの世界は、喜びを求めているのです。

聖書の「フィリピの信徒への手紙」4章4節にはこうあります。 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」奇妙なことですが、この言葉はわたしたちに喜ぶことを命令しています。本来、喜ぶということは、命令されるべきものではないでしょう。しかし、この手紙を書いたパウロは、当時牢獄の中にいたと言われています。ふつうに考えれば、絶望しか出てこないような状況にあるパウロが、「喜びなさい」と語っているのです。

旧約聖書のネヘミヤ記8章10節は、「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と語ります。悲しむことではなく、喜び祝うことの中に、わたしたちの力の源があると預言者は言うのです。

わたしの友人に、松村誠君という写真家がいます。彼の奥さんは、ずっと悪性の脳腫瘍との闘病生活を続けています。発病の時、下のお子さんはまだ1歳半で、何とかこのお子さんの小学校入学式までは見届けたいというのが奥様の願いだったそうです。このお子さんが、先日小学校の卒業式を迎えられました。病状が徐々に進んでいる中ではありますが、奥様は特別な車いすに乗ってこの卒業式に出席できたと、先日電話で話してくれました。彼は、ある地方新聞に写真とエッセーとを組み合わせた連載を持っていました。その連載の最後に、彼はこう書いています。

「病を通してぼくたち家族が学んだごく単純なこと。それは、今をよろこんで生きること。そのことが、ぼくの写真を変えた。ぼくにとって写真とは、こころの言葉なのだ。
  (中略)
季節はめぐり、毎年かならず春は訪れる。花に自らの生命を重ねる多くの人のこころを想う。生と死、それは光と影のようなもの。光りなくして影もない。肉の体には限りがあるとしても、生命のかがやきは永遠に終わることがない。
あの日ぼくは、写真を通してよろこびを伝えたいと願った。あらゆる生命の本質であるよろこびを。そう。生命とはよろこびなのだ。」

先ほどわたしたちが聞いた聖書の言葉は、「あなた方は地の塩である」と君たちに告げます。塩は、すべての命の源である海から来るものです。「あなた方の光を人の前に輝かせなさい。」君たちの生命そのものが喜びなのです。その、神から頂いた君たちの生命を、世界中に輝かせなさい。今日本校を卒業され、広い世界に巣立っていこうとしている皆さんに、今日この聖書の言葉は語っています。あなた方はそのいのちの輝きをもって、この暗く絶望に満ちた世界に喜びをもたらすものとなりなさい。

皆さんが15年前、この世界に生を受けた時、世界はどれほどそれを喜びとしたことだろうか。今日皆さんは、このいのちの喜びをこの世界に輝かせるために、本校を巣立ち広い世界に出て行くのです。君たちは、今日旅立つのです。喜びに飢え乾いているこの世界に、いのちの喜びをもたらすために。

多くの尊い命が失われ、多くの人が悲しみにくれ、多くの人が絶望的な状況の中で放心状態にある。どこを探しても、喜びや希望など見あたらないように感じられる。このようなときだからこそあえて、今日私は君たちにもう一度言いたい。

「卒業おめでとう。」
(注)文中に言及した松村誠君のエッセイと写真は以下で読むことができます。
http://makoto-matsumura.com/cn3/pg99.html